「出石の刀子」出現のパワースポットとして知られています。
淡路島 出石神社【いずしじんじゃ】は、出石の刀子という、宝物が天皇の倉から消え失せ淡路島に出現したという伝説が残っています。
新羅国の王子である天日槍【あめのひぼこ】が八種の神宝を携えて渡来し、播磨国の宍粟邑【しさわのむら】と淡路島の出浅邑【いでさのむら】に住むことを許されたので、諸国を巡ったのち但馬国に定住し神宝を祀りました。
垂仁天皇の御代、天日槍の曾孫の清彦は、天皇の求めに応じ神宝の全てを献上しますが、この宝の内の一つ「出石の刀子(いずしのとうす)」が御倉から消え去ってしまいました。
出石の刀子は、一旦清彦の元に戻ったのち淡路島に現れ、これを島人が神として祀りました。
これが即ち、出石神社の創建です。
日本書紀巻第六より
八十八年の秋七月の己酉の朔戊午に、垂仁天皇は公家衆に詔して、 「新羅の王子である天日槍(あめのひほこ)の持ってきた宝物が、但馬にあると聞いている。私は、その宝物を見たいと思う。」 と仰せられた。
天日槍の曾孫清彦は、使者から勅を受けたまわり、数々の美しい玉などをみずから献上した。
ただし、出石という名の小刀一つだけは、たやすく献上できないと考えて、袍の中に隠して自分が帯びていた。
天皇は、まだそのことをご存知無いまま、清彦を御歓待になろうと、お召しになって御所で御酒を賜った。
そのとき、小刀が袍の中から出てしまった。
天皇はそれを御覧になり、親しく清彦にお尋ねになって、
「おまえの袍の中の小刀はどういうものであるか」
と仰せられた。ここに至って清彦は、もはや隠し通せないと思い知り、
「献上いたしました神宝の類であります」 と申し上げた。そこで天皇は、
「その小刀を、どうして他の神宝と、離すことができようか」 と仰せられた。
そこで清彦は小刀も献上し、神宝はすべて宝の倉に収められた。
ところが後に倉を開いてみると、 その小刀がひとりでに無くなっていた。 そこで天皇は、人を遣って清彦に、
「おまえが献上した小刀が、急に無くなってしまった。あるいはおまえのところへ戻ったのではあるまいか」
とお尋ねになったところ、 清彦は、
「昨晩、小刀は自ずから私の家に来たのですが、今朝、また無くなってしまいました」 とお答えした。
天皇は恐れ慎まれて、もはやその小刀をお探しにはならなかった。
それから後、出石の小刀は淡路島に現れ、島の人は神だと思って、その小刀のため祠を立てた。
これは今でも祀られている。
天日槍命【アメノヒボコノミコト】
・清和天皇貞観九年(867年)10月神階従五位上を賜る。
・漁撈海上安全守護の神として尊崇されるが慶長年間の一時期廃絶の危機にあった。
・享保20年(1735年)に再興され後修築を重ねる。
・近年では昭和62年4月に社殿を修築。旧来の宮地の山肌崩落を懸念し、改めて此所を選定して大宮地を造成し新社殿を造営、平成17年3月5日遷座祭を執行。
尚、出石神社周辺は公園として整備されている。
出石神社の境内には、生石崎沖で海賊と戦った大館主膳正有光(おおだてしゅぜんのかみありみつ)と、桑村隼人亮(くわむらはやとのすけ)の二人の侍が祀られています。江戸時代の書物には、この物語が次のように記されています。
阿波細川家が調達した弓矢を満載した大館主膳正有光の船が海賊舟数十艘に襲われた。主膳と家来は調達した弓矢で応戦し、海賊舟は怪我人や死者であふれ容易には主膳の船に近づけなかったが、ついに主膳も重傷を負い矢も底をついた。
主膳は船尾の屋根へ駆けあがり、声を張り上げて 「私は海の底から、欲にまみれた外道共の妨げと成るのだ。」 と言い残し、切腹して海に身を投げた。家来たちも後を追い切腹し、船に火をかけて焼け死んだ。 それからこの海が静まったことがない。
又、近年三好実休(みよしじっきゅう)が堺に遣わした桑村隼人亮(くわむらはやとのすけ)も、生石崎表で海賊船数十艘に襲われ討死した。 このことで更に海は荒れたので、実休は高僧数十人に六万巻の陀羅尼を誦させ、侍たちを権現に祀ったところ、 海は静まり今に至っているという。
『淡路国名所図会』より
御石権現社(をいしごんげんのやしろ)
同所生石社の東にあり討死の武士を祝い祭るなり
三好記曰 淡州由良の湊の西御石崎に近年海上物騒しく潮の光渡事夕陽の沈めるが如く 海底の鳴事百千の車を轟かすが如し 漸(やや)もすれば往来の舩に風波の悩をなし 破損するを其数をしらず 浦の漁夫ども是を苦しむ事言ふばかりなし その来由を尋ぬるに 先年阿波の屋形細川殿御代(ごだい)に弓箭(ゆみや)あまた調させ給んため 大館主膳正有光といふ侍を和泉の堺へ遣はしたまふ処に 有光おもひの侭(まま)に兵器を調へ 急ぎ舟に乗て順風に帆をあげ泉州谷川表を吹れ下る処に 和泉の谷輪の海賊舟淡州の諏本の海賊船ども主膳が船を目がけ付来りて御船へ物申さんといふ 又紀州の田辺雜賀の海賊舟数十艘馳来りし 主膳が舩に矢を射る事雨の降るがごとし 主膳これを見て悪(にく)き奴原が行跡(ふるまひ)かないで物見せて呉んといひて 船屋形の内より例の剛弓とり出し取つめ引つめ化矢(あだや)もなく射けれバ 同じく舩の内より究竟(くつきょう)の射手ども数多矢を射出したる程に 海賊舩にハ手負死人あまた出来けれバ左右なく近づき得ず 主膳も深手浅手負矢種つきたれバ 船の艫(とも)屋倉へ走り上りて高声に言たるハ 日頃おのれら海上にて盗こそは仕つけたり共 侍の最期の仕義見聞きことも有まじ 是を見おきて物語にせよ 我海底に入て欲心不道の奴原に障碍(しょうげ)をなさん物を と訇りて腹十文字に搔切きりきつさきを咥へ浪の底に逆さまにに落ちて失たる 残る侍ことごとく腹を切舩に火をかけ焼死たるとなり 夫より今に至るまで此海の騒しき事止時なきに 又近年三好実休(みよしじっきゅう)より桑村隼人亮(くわむらはやとのすけ)といふ侍を堺へ兵具調へに遣はし給ふ処にくだんの御石崎表にて海賊舩数十艘付来て隼人亮も討死す 是より猶騒しく成て往来の船どもに風波の悩をなす事止時なし故に実休の仰として尊き僧数十人供躾(くよう)して六万巻の陀羅尼を誦(じゅ)し亡びし侍共を権現に祝ひたまひてより今に至るまで此海しづまり往来の船に障りなきとぞ聞へし
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